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2011年12月26日月曜日

来年は引きこもりから脱出したい

7クール目の投与から6日目。4日目、5日目は副作用がきつく、寝込んでいた。大体投与後の1週間は引きこもらざるを得ない状況。同じ薬で、働いている人も沢山いるらしいのに。個人差がドセタキセルについては大きいらしいが、ぼくにとっては投与後の3、4、5日目を含む1週間は、今までの経験の限りでは、働くことはちょっと難しい。とはいえ、もし幸いにも、ドセタキセルが長く効いて、3年以上長生きが出来ることになると、年金は63歳からで(それも怪しい)貰える金額も小額なので、生活費も稼がないといけないし、老後の不安が出てくる。また、一生引きこもっているわけには行かないだろう。3週間毎に、1週間か10日は働けないけれど、後の10日程度は働ける(軽い労働だろうが)という仕事は、ないだろうか。無いだろうな。ぼくが経営者だったら、そういう人を雇うとは思えない。健康な暇な中高年も沢山いて、仕事を探しているだろうからね。

自分で仕事を作る、起業をするしかないのかも。何の才能もとりえもないのだけれど。知人で株のデイトレードを始めた人がいたが、儲かっているようには思えなかった。ネットで出来る仕事を探そうか。時間はあるので、来年じっくり考えよう。

今年は、8月まで現役で仕事。8月に入院してからは自宅に引きこもっていたけれど、住んでいる集合住宅の理事会だけは何とか無事に任期を終えることが出来た。理事長を引き受けさせられたが、懸案の修繕積立金不足も、長期修繕計画と積立金値上げが総会で決議されたし、解決のめどが立ったので、一応世間の義理は果たせたかな。但し、母親の問題はこじれたまま。

理事会は、途中でぼくの容姿が変わったので、皆さん驚いたのだろうと思う。抗癌剤ですか、と聞いた人はいなかったのは有難かった。また、理事会の業務量も少なく(昔住んでいた千葉の団地は、毎週のように会合があり、負担も大きく、自治会と重複していたので大変だったのに比べれば楽勝だった)、自治会もないので、作業量が少なかったこともある。10年後にはまた順番が回ってくる。その時までここに住んでいられるだろうか。積立金の値上げは痛かったな。自分で値上げを提案しておいて、何だけれど。




2011年12月23日金曜日

ドセタキセル(タキソテール)7クール目

D2の告知をされてから、1年4ヶ月目。

抗癌剤の無かった昔は、D2の3年生存率はとても低かったし、5年生存率は1割程度だったのではないかと思うが、ドセタキセルの使用開始以降はどうなんだろう。もう少し延びたのだろうか。そうだと良いな。

やっと7クール目になった。副作用は相変わらずで、足がむくむため歩くのが辛い、手足の痺れ、味覚障害、悪心(我慢できる程度にまでなった)、爪の変色と痛み、胃腸障害(下痢は大分緩和されてきた)、全身の髪が殆ど抜けた、咽喉が痰でつまり変な咳が出る、などなど。投与の翌日は、具合が悪くて、寝込んでしまった。3日目からは歩ける程度には回復した。副作用の出方が毎クールで異なるのが不思議。人によっては、7、8クールで良くなることもあるらしい。今のところは、そうした兆候はなく、累積しているような気がする。特に爪がひどい。痛いし、弱くなっている。割れそうな雰囲気あり。

味覚障害には亜鉛とビタミン剤が効くと聞いたため、コンビニでサプリメントを購入。飲んでいるが、効き目の程度は良くわからない。

ドセタキセルに加え、ゾラデックス、エストラサイト、プレドニゾロン(ステロイド剤)など、以前から投与または飲んでいる薬を併用しているが、病院によっては併用はしないらしい(久留米大での情報)。ステロイド剤は、本によっては恐ろしいことが書かれており(例えば、大野更紗さんの本)、ちょっと怖い薬だが、処方されたとおり飲んでいる。エストラサイトの副作用による体の女性化はどんどん進んでおり、体重も落ち、筋肉も落ち、ふっくらとした体型になった。筋肉が落ちたのは、運動ができなくなっているためもあるのだろうけれど。

ドセタキセルによるQOLの低下、生活の激変は残念だけれど、もしやっていなかったら、死がもっと近づいていたような気もするので、前向きに考えるようにしている。PSAもまた13台から12台に低下したが、誤差の範囲かも。

今日は姉夫婦に夕食を招かれたので、家から5分程度の近所のレストランまで出かけた。歩くのは少々しんどかったけれど、引きこもっていても、体力が弱まる一方なので、少々無理してでも出かける。味は良く分からなかったのが残念。ウルソ(肝臓の薬)は処方がなくなったので、今は飲んでいないのだが、止めてから、酒が少し飲めるようになった。とはいえ、ビールでコップ1杯程度だけれども。

生きてまた正月を迎えられそうなのは、目出度い。でも、年賀状で新年を祝う気持ちにはまだなれなかった。年賀状で、まだ生きているよ、と告げるのも、告げられた方はびっくりするか、嫌な気持ちになるかかもしれないし、同情してくれと言っているようでもあるので、出さないことにした。東北の被災地の人が、年賀状を出したくない気持ちが良く理解できる。頑張ってね、とは言われたくないしね。


2011年12月8日木曜日

幸せは歩いて来ない

久留米に通うと、治療の前後に近辺のホテルに泊まるため、時間が沢山できる。普段見ないTVも結構見ることになる。その中で、NHKの100分で名著を読むという番組があり、アランの「幸福論」を取り上げていたのを見たが、結構面白くてためになった。NHKを辞めたはずのアナウンサーが司会だったのにも少々びっくり。

アランの本は読んだことがない。哲学書は苦手意識があったのだが、何せ読まなくても読んだ気にさせる安易なTV番組なので、簡単なエッセンスだけをぼんやりした記憶で辿ると、

・幸せになるのは、市民の義務である。不幸は伝播するので、あなたが不幸であることは周りも社会も不幸にする。
・どんなに過酷な状況でも、小さな幸せを積極的に見つけ出し、幸せと思えれば、幸せになれる。過酷な状況そのものを変えることは出来ないから、心の持ちようで、不幸にもなり、幸福にもなる。
・幸福だから笑うのではなく、笑うから、幸福になるのだ。
・幸せは向こうから歩いて来ない。(星野哲郎はアランの愛読者だったみたい。)

ということらしい。ポジテイブ・シンキングというより、生き方の哲学みたいなものだろうか。市民の義務とまで、断言するところがすごい。

私の母は、過去20年口癖で毎日私は不幸だと言い続けてきたが、確かにそれが周囲をどれだけ不幸な気分にしたことか。悪い見本が身近にあるので、結構納得のいく番組だった。ぼくも癌だから、不幸だと考えても、病気や事態が改善されるわけでもないし、不幸だと思い続けて闘病生活をするのと、幸せだと思いながら死ぬのがどちらが良いかと言えば、当然後者だろうから、心を切り替えて、毎日を幸せ探しで生きて行こうと思う(ちょっとアランの趣旨と違うか)。家族が不幸な気持ちになると、それはまた患者をも不幸な気分にするから、悪循環になり、結局自分にも跳ね返る。

あべるっちさんの旦那さんなんか、まさに実践されているのかも。

という訳で、癌になったけれど、幸福だなと思えることを探してみた。結構無理やりだけれど。

・自宅療養で、暇が出来、本を沢山読めるようになった。
・短い人生でも、内容次第かなと思えるようになった。
・一人でさびしい老後の不安がないのは、ラッキーかも。
・周囲の人の親切が身にしみる(席を譲ってもらうと嬉しい)。
・末期癌でも、まだまだ久留米まで行ける体力もあるし、多少の見物も出来る。
・良い友人がいた。

などなど。

2011年11月30日水曜日

大野更紗の「困っている人」を読む

会社に出られず自宅療養中なので、時間がたっぷりある。時々、身辺の整理をやっている。人が死んで一番困るのは、色々なものを残すこと。遺品の殆どはその人にはとても意味があるが、家族には無意味なものが多い。父親の死でそれを知り、処分に大変な費用、手間と労力がかかり、困惑した。殆ど捨てたが、ぼくの発病の遠因になった気がするほどの苦労があった。母親は更に整理できない人で家をゴミ屋敷にしていたほどなので、彼女が死んだらどうなるか、今から不安だが、もうぼくの手には負えない話。写真など、典型で、思い出を共有していない人には残されても無意味。

自分の持ち物で、過去の引越し時に自分でも呆れたのが、本、食器、服の多さ。服は30年前から体型が変わらないため、古い衣料品も着られることが多さの理由だったが、既に半分ほど捨てた。まだ着られたんだけどね。勿体ないとは思うが。でも、まだまだスーツとか多くあるので、徐々に処分の予定。本は、古本屋などに時々売っている。食器は人に半分ほどあげた(まだまだ多いがこれだけは毎日使っている)。

布団もがさばるが、今後ベッドに変えようと思うので、その際一括処分しよう。

書類の類いもどんどん整理。過去のインボイス、ステートメントは不要。税金や年金のことを考え、給与や何やら昔は書類は全て取っておいたが、今はどんどん捨てることにしている。銀行口座や証券会社もひとつにまとめたいが、手続きが面倒でまだ出来ていない。

今取り組んでいるのは、演劇や音楽会のパンフ類。どうしてこんなに行ったのか、と思うくらいの数に行き、パンフ類を全て取ってあった。過去40年分くらいある。でも見ても殆どは記憶に残っていない。そんなものかね。肥やしになったのか、ならなかったのか。これらに使った金を貯めておいたら、良かったかな。でも遺産を残す人もいないので、自分のために使って良かったかな。ばっさり捨てると身軽になる。

とはいえ、まだまだ家の中には物が溢れている状態。

「エンデイングノート」という映画があり、近所でやっていたので、見ようと思えば見られたのだけれど、気分的に辛いだろうと思い、見なかった。自分がすぐに死なないと思えば、そういう映画を見て、身辺整理をするのも楽しいのだろうが、末期がんを患っていると、差し迫った問題なので、死が身近な映画というのは、だめです。

大野更紗というまだ20代の女性が書いた、「困っている人」という難病の闘病記を最近読んだ(とても良い本です)が、読後涙が止まらず、うなされる始末で、読んだことを後悔したほど。ネットで、読後感動したとか色々書かれていたが、皆健康な人なんだろうと思う。悪夢のような体験をすると、それに触れられることは耐え難い。そしてその悪夢はまだまだ続いている訳で、近寄らないに越したことはないようだ。

病気の初期には闘病記を沢山読んだが、今は元気になる本とか、楽しいことにしか興味がない。

2011年11月28日月曜日

6クール目

PSAは、8月には主治医が検査をしなかったので(意図的なもの)、最高値が良く分かっていないのだが、9月に16、11月に11に低下したが、6クール目の検査で13にまた上がってしまった。ショックで、少々へこんだ。

医師に今後の治療方針を聞くと、あいかわらずのぶっきら棒で「当分このまま」とのこと。4クール目までPSAが下がらない治療例が知られているとのことだが、流石に6クール目では症例はないだろうとのこと。外に薬の選択肢はないので、ドセタキセルは(死ぬまで)続けるということらしい。

今後PSAはどうなりますか、と聞くと、わかりません。との答え。患者の気持ちは理解せず、重要な情報は出さず、淡々と、最小限しか答えない主治医。3月に出向先の大病院へ戻るらしいので、あと数ヶ月のお付き合いだけれど、次はもっと会話のできる医師が来てくれるといいかな。患者の余計な心配、不安を掻き立てるのは避けたいという気持ちも理解できなくはないのだが。

もっとPSAが高くても、ドセタキセルを続けて、生きているいる人も多いようなので、頑張るしかないか。副作用は5クール目に比べれば軽くて済んでいる。

2011年11月8日火曜日

ドセタキセル(タキソテール)5クール目の副作用

今回の副作用は、今までとちょっと違った。投与後3日目から、強い倦怠感、疲労感。眠い。だるい。外出が困難。歩行が難しい。足の裏が痛いからではなく、そもそも歩けない。運動は困難。食事の食材の買出しに頑張って近所のスーパーへ出かけるのがせいぜい。3日目に、ちょっと無理をして国立劇場に歌舞伎を見に行った。体を動かさないし、じっとしているだけだから大丈夫かと思ったが、無理で、殆ど寝てしまった。途中で退席。劇場への往復でぐったり。4、5日目も殆ど横になったまま。本も読めず、寝てばかり。これでも仕事に行けば、という主治医は、きついなあ。

下痢は殆どないが、下腹部が時々痛い。我慢できる範囲。

味覚障害はいつもどおり。甘みも良く分からなくなってきた。頻尿も続き、2時間毎に夜トイレへ。

苦しいけれど、これを乗り越えれば、普通に暮らせる日もあるので、頑張らなくては。

2011年11月5日土曜日

抗癌剤投与の帰り、小田急で席を譲られた

金曜は、主治医の病院で、タキソテール(ドセタキセル)、ゾメターの投与日。10時半頃に病院に行き、血液検査をしたのだが、投与開始は1時半。終わったのが、4時だった。一日仕事。腕の角度や位置で点滴の速度がまるで変わることに気がついた。本を読んだり、寝たりすると、点滴が流れなくなっていたようで、時間がやたら掛かった。次回からは気をつけよう。

帰り道、新宿駅で若い人から席を譲られた。生まれて初めての経験。まだ56歳なんだけれど。どうも70代くらいには見えるのかな。或いは病気ということが見え見えなんだろうか。有難く好意はお受けしたけれど、複雑な気分。疲れている時が多いので、そういう時は、優先席で、席を詰めてもらったり、おばさんが占拠している荷物をどかさせたりして座ることが多いけれど、普通席で席を譲ってもらったのは初めて。

自分の考える自分と、他の人から見えている自分のギャップに悩む。すごい病人に見えるのかな。その日は特に疲れていないし、副作用も出ていないのだけれど。主治医はできれば働けというスタンスだが、勤務先では、恐らく歓迎されないだろうな。

2011年11月3日木曜日

久留米大病院への行き方

東京から、日帰りが可能なのだけれど、そして地方から来ている人(関東、関西、四国、沖縄の人もいるらしい)の殆どは日帰りをしているようだ。仕事があれば、当然日帰りを選ぶだろうけれど、ぼくは余りにも疲れるので、福岡で泊まることにしている。

早朝の便で羽田から福岡空港に行き、ターミナル前の高速バスで久留米行き(20分に一本は出ている)に乗り、西鉄久留米駅か、市役所前か、JR久留米駅で下車。西鉄久留米からはバスが頻発。JRからは30分に1本程度。市役所前で降りれば、徒歩10分程度。医大通りという気持ちの良い並木道をそぞろ歩きしていると直ぐに着く。午後の診療なので、午前の便は遅い便でも構わないのだが、料金の関係でいつも早朝の便を選んでいる(スカイマークで最安値は8,800円、全日空で11,800円)。高速バスは1,300円。交通費がかなりかかる。確定申告で、旅費は医療費として控除が可能らしいけれど、重い負担となる。高速バスを使わず、博多駅か、天神駅から電車で行った方が安いけれど、時間はかかる。1時間強程度かかる感じ。駅から大学病院まで、バスで10分程度。

久留米市役所は立派で、見学する価値あり。てっぺんの喫茶からの眺めが素晴しい。筑後川、有明海、阿蘇、雲仙まで見渡せる。

大学付近には昼食の店はあまり無い。ないことは無いけれども。少ない。大学病院3階に食堂、パン屋、コンビニがあるので、通常はそこを利用することになる。大学の隣に、久留米城址があるけれど、特に見るべきものがないのは残念。あまり史跡を大事にするような町ではない様子。産業都市なのでかな。市役所の北に石橋邸があるが、非公開。一度中を拝見したいものですが。

いつも、福岡に泊まり、名所旧跡を回っているが、昔から仕事で通っていたこと、その都度名所も見たので、今や行き尽くしてしまった。下の写真は、福岡でいつも庭をぼっと眺めながらお茶を頂く楽水園のお庭。




2011年10月29日土曜日

ようやく告知から1年と2ヶ月

前立腺癌と告知を受けてから、11月でようやく14ヶ月目を迎える。1年で死ななくて良かったな。長生きはしたいものだ。

会社にも行けなくなり、話し相手があまりいない。鬱で、被害妄想的な症状も出たせいか、人と付き合うのが苦手になった。友達と会うのも、人にもよるが、楽しくない。同情されるのが、嫌だ。家でごろごろばかりしている。ドセタキセル+ゾメター投与後の1週間から10日は下痢と悪心と足の痺れで外出が難しい。仕事は在宅ならできそうだが、そういう会社の制度がなく、諦めざるを得ない。

癌を忘れないと、いわゆるキラー細胞、善玉白血球も増えないと思うので、笑うとか、適度な運動とか、娯楽も必要と思うけれど、投与後直ぐは体力が80代並みで、階段を上がるのさえ息が切れるし、骨折したら一大事なので(骨はスカスカらしい)、大したことはできない。ジョギング、ランニングは無理。できるのは水泳と、水中歩行くらいかな。骨折のリスクのあるスキーは捨てた。カヌーも早く処分しないと。家の中で粗大ごみ化している。自転車のロードレーサーはインテリア(ベランダの飾り)と化している。できるのは、じっとしていられる娯楽ばかりで、DVDとか映画とかになりがちだ。とはいえ、外出すると疲れるので、中々思い通りにはならない。お金も無いのでオペラとか能のような高額な娯楽はきつい(将来の失業状況+高額医療費を考えると、贅沢できず、外食はできず)。歩くのも、結構疲れるので、自分でも、とても50代とは思えなくなってきた。体力的な実質年齢は70代くらいかな。

副作用のひどい時には、湯治も無理で、寝てばかりでいいし、食事も作らなくていいので行きたいのだけれど、外出することがおっくうなので、行かなくなった。車の運転も長距離は無理。

家の窓から見える大山に一度お参りに行きたいとずっと思っているが、行けるだろうか。昔は馬鹿にして、登ることなど考えても見ないような山だったけれど。

どうして病気になったのか、何故検査が遅れたのか、色々後悔したり、考えたりしたこともあったけれど、そういう後ろ向きのことをいまさら考えても無意味なので、止めた。人を恨むのも、自分を恨むのも止めた。ストレスのたまる付き合いも止めた。後は、母親との和解だけが課題。

彼女はぼくの病気に全く興味がない。今年の正月に正直に病状を告げたが、その後一度も聞かれたことがない。アガリスクで治るはずよ、などと言っていたので、風邪か何か程度に思っているらしい。自分のことにしか興味がないようだった。でも今ではぼくも同じ状態になっている。病気治療で精一杯で、介護施設にいる親のことを心配している余裕がない。何てひどい子供だろう、と思う。

サプリメントは皆止めた。効果がない。高いし、気休めにもならない。食事制限はやっているが、外食で肉が出た場合には少量は食べるようにしている。人参ジュースは作るのは止めた。かすの処分が大変すぎるので。専ら缶入りジュースで対応。

後々のことを考え、服、食器、本を徐々に処分している。結構大量に持っているので。この一年で半分は捨てただろうか。来年の今頃にはがらんどうの家になっているのかな。

2011年10月22日土曜日

味覚障害

今回のクールの副作用で、いつもと違うのは、末端神経の痺れと味覚障害。1クール目は数日で治ったが、4クール目は2週間後の今も続いている。だんだんと副作用は累積するとは聞いていたけれど、これが結構辛いのだ。手足の痺れもまだ続いている。

味覚障害では、舌の味蕾がしびれるのか、どうかなのか、原理は良く分からないけれど、塩味を余り感じなくなり、苦味、うまみ(アミノ酸とか、グルタミン酸などの味)にとても敏感になる。砂を食べているみたいに感じるらしいと言うけれど(砂を食べたことはないから、本当にそうかは知らないが)、殆どのものについて、おいしく感じられない。ラーメンなどでグルタミン酸を使いすぎていると、気持ちが悪くなるくらいに強く感じる。これが天然由来の、自然な、完熟したぶどうのうまみでも駄目(だからワインも駄目)で、葱を煮たときのとろっとした甘みも駄目。鍋の葱が食べられない。うまみ成分凝縮されたところなんだろう、舌に触れただけで気持ちが悪くなる。ビールは苦すぎて飲めないし、ゴーヤーも駄目。とにかく苦い食べ物が駄目。我慢できないくらい。味の6要素の残りの三つ、即ち、甘み、酸味、辛味は大丈夫。

という訳で、味の濃い、食べ物のみ食べられる。カレー味、トマト味は大丈夫なので、カレーとパスタばかり食べているような。揚げ物、ソース味も大丈夫だから、殆ど子供と同じような味覚感覚なのかも。

子供の食い物ばっかり食べているというのも、悲しい現実。美味しい京料理とか、会席料理とかフランス料理を食べても、恐らくは舌が受け付けず、味わうのは困難でしょう。お菓子でも、高級な栗饅頭はうまみと苦味が邪魔して食べられず、安い甘いだけのお菓子は何とか食べられました。

2011年10月16日日曜日

前立腺癌治療で辛いこと

深作欣司監督(字が正しいかな)は治療を拒否したらしい。松田優作は、ハリウッド映画への出演を優先して、治療しなかった(時間がなくて、できなかった)らしい。ゴルフの杉原プロは治療をためらったらしい。というのは、前立腺癌の原因が男性ホルモンにあるから、これを止める、去勢することが前立腺癌治療の第一歩としてあるからで、男性的な作品の製作や、男性的であることが映画俳優としての魅力と本人が思っている場合や、ゴルフをする上で闘争心が不可欠と考える場合に、薬物的とはいえ、去勢しなければいけないというのがどういうことなのか、考えるまでもなく、本人の生き方そのものに影響するから、治療をしないという選択もあるのだろう。

私は、直ぐに死にたくなかったので、当然治療を優先させたが、やはり去勢(薬物的なものだけれど)は悲しかった。女性が乳癌や、子宮癌になり、こうした臓器を摘出しなければならないとしたら、やはり辛いだろうし、その辛さは女性じゃないと分からないだろうけれど、男にとっても、去勢をする、あるいは手術で前立腺を取ったために生殖機能が失われる、或いは勃起しなくなる、などということは男性であるということに関わる重大事(identityが一部失われる)なので、辛い選択だ。更には、エストラサイトのような薬物で女性化が進むと、外見的、つまりは乳房が大きくなるだけでなく、精神的にも女性化が進むので(闘争心はなくなったと思う。チャレンジする気持ちも失せた)、性格も変わるし、温和になるし、人格にも影響があるような気がする。こうしたことは、誰にも相談しようがないので、どうしても鬱屈することになると思う。少なくとも奥さんやパートナーに相談はしないだろうと思う。

また、膵臓癌のように直ぐには進行しない癌であるため、癌との付き合う期間が比較的長いことも、良いような悪いような、宙ぶらりんで、死刑宣告を受けたまま執行されないような、不安定な気持ちに当初なった。カズオ・イシグロの小説、Never Let Me Go(邦題は「私を放さないで」だったっけか)を読んだ時に、臓器提供のために人工的に生まれてきて、臓器を提供したら死んでいかなければならない子供たちが、そのあまりにも過酷な運命を受容し、死を引き伸ばそうと彼等なりに努力するものの、結局は報われず、定められた運命には抗えないまま、淡々と死を迎えていく、という普通ならば理解できないような彼らの物語、気持ちが、何故かとても良く分かったような気がした。変えられない運命が自分の運命であるのならば、どうすれば良いのか。抵抗するのか、嘆き悲しむのか。静かに過酷な運命を受け入れるのか。

3月の大震災で考えたことは、もし震災で死んでいたら、自分の死が予定されていることを知らないまま、あっさりと津波で死んだのだったら、どうだったんだろう、どっちが幸せか、不幸かということだった。勿論、家族にとっては、話は別だけれども。

今は、死ぬ準備をしつつ、一日でも長く、楽しく生きたいと考えている。でも周囲にはすごく迷惑を掛けている。幸い子供がいないので、自分が死んだ後の家族の金銭的な心配をしなくていいのは気が楽だ。(その代わり、忘れ形見もいないから、僕が存在したことを誰が記憶してくれるのだろうか。)家族がおり、扶養していれば、一家の大黒柱としての責任と役割があるから、そのストレスは大変だろうと思う。




ドセタキセル(タキソテール)の4クール目

現在、抗癌剤ドセタキセル(タキソテール)+ゾメター(ビスフォスフォネート)を3週間に一度、ペプチドワクチンも併用して投与を開始中。

ペプチドワクチンには殆ど副作用はないが、ドセタキセルとゾメターには強い副作用が出ているので、その整理を。

ドセタキセルの初回(このときはゾメターはなし)の投与の際には、初日から10日目くらいまで、下痢がひどく、食事後1時間ほどで水状の下痢が続き、下腹部が差し込む痛みを伴い、外出など怖くてできない状況だった。悪心、不安、頭痛も伴い、精神にも若干の影響が出たため、抗鬱剤を同じ病院の神経科で処方してもらい、飲んだ。

2クール目は慣れたのか、強い副作用はなかったが、下痢対策で強めの下痢止めを服用。下痢はある程度我慢できるほどに収まった。但し、歩行障害が3、4日出た。足がむくんだためか、或いは足が麻痺したためか、良く分からないが、兎に角歩くのが若干困難に。

3クール目からゾメターを併用。ゾメターのせいか、筋肉痛で全身が痛い。歯も悪くないのに痛い。6日目から9日まで立ち上がれないほどの倦怠感。外出は一切せず、家に籠もる。下痢は軽め。抗鬱剤は服用を停止。精神的には立ち直ったみたい。

4クール目は、3日目から軽い下痢。とはいえ、頻繁に下痢。下痢止めの強い薬を飲んでいるが、完全にはコントロールできていない。

今までの経験では、投与から10日間程度は辛い。外出を控える必要がある日も数日ある。後の10日程度は比較的元気に過せるが、運動は元のようには行かない。というのも、赤血球が激減しているため、直ぐに息が上がってしまう。階段の登りが辛い。山登りなど、夢のまた夢のよう。1年前までの体力とは全く異なる。一年前なら百名山級も登ったのだが、今では家の前の坂道でさえやっとだから、他人が登っているのをTVで見るのもシンドイ感じ。白血球も7日目から14日まで激減するため、感染症にかかりやすい。主治医は満員電車には乗るな、と言う。東京で通勤はこれでは無理。

とはいえ、治療を何もせずでは、余命は1年程度かもしれないと思うため、治療を苦に思うことはなくなった。また元気な日には生きていることを実感できるため、人生を短く太く生きているような気分。仕事は休業中で、そのうち失業してしまうため、医療費が不安なのと、万一長生きしたら(そんなことはないのだが)どうなるのか、という一抹の不安がある。

ホルモン療法をやっているときは、水泳教室で激しく泳いでいると癌患者だということを忘れられたが、今では無理なので、癌のことはお能を見たり、映画を見たり本を読んだりして時々忘れることにしている。とはいえ、お金がかかること(例えば、能)はだんだんとしにくくなっている。

外見が大きく変化し、髪はなくなり、表情も乏しくなり、一見して癌患者風になったような気がしている。自分に対する自信がなくなりつつあるような気もしている。電車に乗ると、いじめられそうな気がして怖いことがある。弱気になっているような。

2011年10月6日木曜日

久留米大病院での治療1クール目ワクチン投与1回目

久留米大病院でのペプチドワクチンの治療に応募したところ、なんとか基準にひっかかったようで、治療可能との連絡を受けたため、1回目のワクチン投与に久留米まで行ってきた。日帰りも可能だけれど、体調次第ではきついかなと思ったのと、天候で飛行機が飛ばないリスク、安いチケットだと変更が効かない、等々も考え、余裕をもって出かけてきた。ついでに、博多の名所巡りもしたが、殆どの名所旧跡へは行ったことがあるので、次回以降は行く場所がなくなりそう。

ワクチンの注射は4箇所。とても痛いです、と言われたので、覚悟したが、本当に痛かった。普通注射で痛いと思うことはないのだけれど。

注射後は特に腫れもなく、風呂も普通に入ることが出来、痛みもない。痕も特に目立たない。

効果については、1割程度の人に効く可能性があるとのことなので、何とかその1割に入りたいと思うが、どうだろう。右足のふとともに打ちました。

保険が効くと良いのだけれど。交通費を合わせると、1回のワクチン投与が11万円以上になってしまう。これを1クール8回繰り返す予定。もし効果があればもう1クール8回投与することになる。命には代えられないものの、効かなかったときには、経済的な痛みが大きいなあと実感。

箱崎宮の花園をお参りのついでに見学しました。箱崎宮は初めて。16世紀に大内氏が建てた本殿と拝殿があり、立派。国宝ではなく、重要文化財。福岡には16世紀の建物が結構あるせいなのか。立派な参道の先は海で、砂浜が残されており、例の山笠の時の禊をわざわざここまで来てするらしい。花園は彼岸花の真っ盛りで、白と赤と黄の彼岸花が咲き誇っていました。


2011年9月30日金曜日

苦しい副作用の3クール目

3クール目は、ゾメターが追加となった。台風が関東に来た日に治療。早く帰らないと電車がなくなるので、気が気でない。手際の悪い病院なので、看護士は皆暇にしているのに点滴の用意がなかなかできず、焦る。

2時にとにかく点滴を終え、急いで帰ろうとするが、乗った電車は途中で運転打ち切りとのアナウンス。たまたま打ち切りの駅が自宅の最寄り駅だったので、なんとかセーフだったが、ちょっと遅かったら、帰宅困難者になった筈。

投薬6日目から8日目まできつい副作用が出て、手足が若干しびれ、悪心、節々が痛む。歯にも影響があるような感じで痛い。味覚障害等で、歩行も困難。結局何もできず、外出もせず、家で寝ていた。ここまでひどいのは初めて。その代わりいつも悩まされていたひどい下痢は今回はなく、軽い下痢で済んだ。下痢止めを出してもらったが、結局使わず。

抗鬱剤も、もう大丈夫と思うので、医者に相談し、服用を止めた。止めても問題はなさそうだ。

3日間、買物もままならないので、家にある買い置きで対応。冷凍したもの、買い置きの缶詰など、整理になって良かったかも。

味覚障害がきつくなり、味が殆ど分からない。苦味ばかりが感じられ、他の塩味、甘み、うまみ、辛味、酸味のバランスが崩れ、何を食べても上手く感じられない。唯一、トマトソースと、カレーは大丈夫で、影響がないようだ。

3クール目で副作用がきつく感じたのは、ゾメターを追加したせいなのか、累積した抗癌剤のせいなのか。どっちだろう。4クール目以降、この3日間は注意しよう。

2011年9月17日土曜日

久留米大にペプチドワクチンの可能性を試しに行く

タキソテールの効き目は半年程度との予測をK大病院の医師にされているため、何とか他の新しい治療法も探したいと考えていたが、残された選択肢は、久留米大のペプチドワクチンと丸山ワクチン程度。どちらも保険適用ではない。久留米大のペプチドワクチンは誰でも自由診療(保険外診療)として受けられるが、遠く、時間がかかるので躊躇していた。しかし、今となってはそうも言っておられず、受診して来た。

まだ受診可能かどうかは分からない(白血球の型に制限があるため)。検査費用も交通費も保険適用外なので、かなりの負担。また受診にどのくらいの時間がかかるかも分からなかったので、余裕を見て、太宰府天満宮へのお参りも兼ねて(とはいえ、大学受験をするわけではないのだけれど)久留米へ行って来た。

久留米の町と、久留米大については、関東者なので、知識は皆無。ブリジストンで有名な有馬氏の城下町、絣で有名な町という程度。行って見たら、大都市でした。産業の町。鳥栖、小郡と一体化しており、一大産業都市。浜松とか、太田のような町かな。

大学病院も、立派で、大きくて、びっくり。患者やバスの中の市民は皆ほとんどが福岡弁らしき言葉を話すので、どぎまぎしたけれど、病院は受付から看護士、医師の全員が標準語でした(当然のことながら)。

交通費が5万円近く、検査費用も8万円ほどで、痛いが、命には代えられず。

2011年9月6日火曜日

ドセタキセル(タキソテール)副作用

2クール目を経験して、タキソテールの副作用のパターンがだんだんと分かってきた。勿論個人差が多いそうなので、僕に関してはこうだったということになるけれど。

投与した日を1日目として、7日目あたりから12日目頃まで、白血球が激減する。骨髄抑制の効果らしく、リンパ球も赤血球も減る。このため、細菌、ウィルスに感染しやすく、治りにくいため、風邪であっても重篤になりやすい。しかし、この間は、体調上の不快感などの実感はない。生活実感は普通。

逆に、生活上影響が大きいのが、投与直ぐに表れる、味覚障害と胃腸障害。味覚障害は直ぐに現れ、7日目頃まで続く。食欲はあるけれど、何を食べても苦く感じる。味雷の神経が影響を受けるせいなんだろうか。渋み、苦味を感じる神経は生きているのに、他の甘み、塩味、辛味、旨みを感じる神経が死んだような感じがする。料理をする気にならなくなる。味が分からないから、味付けが出来ない。胃腸障害は、3日目頃から6日目まで続き、ひどい下痢になった。吐き気はしない(人によっては吐き気が出るらしい)。これが一番辛かった。食べて30分から1時間後に下痢になった。毎食後、下痢。脱水症状も伴う。

不安感が胃腸障害と同じ日程で出た。鬱の症状で、人間関係に影響が出る。何もかも嫌になる。前向きに物事を捉えられず、引きこもりがちになり、僻みっぽくなる。胃腸障害の影響なのか、直接の影響なのかは不明。このため、抗鬱剤を飲んでいる。だから、抗鬱剤の副作用で、眠くなり、ぼうっとしてしまい、運転は禁止。

ということから、投与後、3日目から6日頃までは会社勤めには向かない。下痢なので電車などは要注意だ。その後の週は、マスクをする、手を常に洗う、うがいをする、消毒をする、など自己防衛をすれば会社勤めは出来そうな気がする。但し、白血球の減少中は満員電車に乗ってはいけないとの医師の指示なので、時差出勤が必要になる。3週間目は普通に暮らせる。

2011年8月31日水曜日

ドセタキセル(タキソテール)投与2クール目

今日は、タキソテールの2クール目。10時40分頃に病院へ行き、血液検査に並び、その後神経科へ行き、引き続きの抗鬱剤(リフレックス)を貰い、昼食を院内で食べ、泌尿器科へ12時半に行くと、病室で投与するので病室へ行くように指示される。

病室では、相変わらずの主治医が突然今日はゾメターはやらないと言い出すが、説明する気がなさそうなので、次回聞くことにする。この人はまるで患者の意思や意見に耳を傾けない。一方的に発言をして終わり。困ったので、看護士に血液検査の結果を貰い、次回(9月9日に血液検査で来ることになったので、その時に)ゾメターについて聞くことにする。投与すべきだと思うが、何か理由があるんだろうが。そのために、親知らずを2本も抜いたのに。

結局12時半に開始した点滴(水分→吐き気防止剤(ステロイド剤、胃腸薬)→タキソテールの順で、終了は3時。一日仕事になってしまった。

薬局で薬を貰ったら、4時頃でした。

2011年8月23日火曜日

1クールをようやく終了、退院

入院期間が15日にもなってしまった。初日は尿の量の検査。二日目に骨シンチ、MRI。三日目にしてようやく抗癌剤という悠長なもの。

副作用は抗癌剤ドセタキセル投入の初日から激しく、下痢が続く。続いて徐々に味覚障害、胃腸障害、悪心(気持ち悪い)、吐き気(これは大したことなし)、めまい(これも大したことなし)、精神的不安(これが一番問題)に苛まれる。あまりの辛さに、抗鬱剤を処方してもらう。流石に、7日目頃から副作用は緩和された。

問題の骨髄抑制は、6日目に白血球が3,200に低下(普通の人はその2~3倍はあるらしい)、11日目に2,700にまで低下。13日目に3,900に戻った。この間、外出禁止、部屋からも出ないよう勧められ、部屋からでるときはマスク着用、手洗い嗽。

特に自覚症状はないのだが、満員電車に乗るな、人ごみへ行くなとのこと。風邪をうつされやすく、治りにくい、重篤な症状になりやすいらしい。またこの間は、生ものも避けたほうが無難とのこと。食べても大丈夫だが、当たりやすいらしい。

会社に行くのはまず無理ではないか。東京で通勤電車に乗れないと、会社へどうやって行くのか。昼間行けと言っていたが、無理な相談。

結局、最初の1週間は体がだるく、辛く、寝てばかり。次の1週間は体の症状はないが、白血球の大幅減少で行動に制約。

最後の1週のみ、普通の生活ができる感じ。


2011年8月14日日曜日

ドセタキセル(タキソテール)の副作用

主治医によれば、ドセタキセルの激しい副作用、特に骨髄抑制が出るのは、点滴後7~14日頃とのこと。

今の薬は吐き気が抑えられるようになり、以前よりずいぶんと楽になったのだそうだ。それでも、10日にドセタキセルを点滴して、翌日はひどい下痢、その後は収まりつつあるが、4日目もおなかは緩い状態。また翌日から口内が腫れたような、口内炎のような味が感じられないような状態。食欲はあるが。3日目から風邪のような症状で、体中の関節が痛いというか、腫れたような、風邪のとき節々が痛いような状況。また4日目から足の裏が腫れ、歩くのが辛い。きつい靴は全部捨てたが、確かにスニーカー以外の革靴で歩くのは辛そう。体がだるく、階段の上り下りがしんどい。

これらは、ごく軽い副作用らしい。

7日目頃から、骨髄抑制で、白血球、赤血球が大きく減るので、重篤な副作用が現れる可能性があるとのこと。

今回は、6月に親知らずを抜いたため、歯科医師の勧めで、ゾメターは9月から使用するようにとされているため、ゾメターは使用せず。

点滴した薬は、

ドセタキセル150mg
ブラニセトロン 3mg
デカトロン  6.6mg
ガスター   20mg

でした。終わるまで、4時間半かかりました。結構長くかかった。

2011年8月11日木曜日

入院4日目で退屈

入院先の病院は空いていた。理由は不明。お陰で、4人部屋に独り。夜のトイレに気を使うので、ラッキー。話し相手はいないけど、問題なし。本を読み、cd、ラジオを聞き、漫画を読んでいる。若干退屈。オペラも何曲も聴いてしまった。ネットにはオペラ専門のラジオ局が沢山ある。でも近頃はまっている謡曲、能をやる局はない。京劇の局は沢山あったが。能の観客数と京劇では桁が違うのね。きっと。

一日目は小水を溜めるのみ。投薬量を決めるとのこと。二日目はレントゲンのみ。三日目に化学療法開始。何故か、院長、婦長の巡回があった。余程悪いのかな。そりゃ、そうだろうけどね。その夜に下痢。早速の予告通りの副作用。全く寝られないので、明日からは睡眠薬を貰おう。

2011年8月8日月曜日

今日から入院

55歳にして、初めての長期入院。生検は2泊3日だったし、子供の頃の怪我で入院したのも、数日なので、初めての体験だ。生命保険の特約の医療保険の入院医療費が貰える。

ドセタキセルの副作用で9割程度の人は、毛が抜けるとのこと。これを一生(死ぬまで)続けるのか、と思うと辛い。薬が効かなくなれば使わなくなるが、それはもう生きていないだろうということでもあり、困ったものだ。

生ものが食べられなくなるようなので、最後の夕食は手巻き寿司にした。刺身が食べられなくなるのは辛いだろうか。多分生牡蠣が食べられないのが辛いだろうな。三陸の牡蠣復興ファンドに小額寄付したので、数年後に生牡蠣を若干個貰えるはずなのだけれど、生きているか、食べられるか。

髪が抜ける前に家族写真を撮ったら、とのある方のお勧めに従い、近所の写真館で記念写真を撮った。六つ切り1枚で1万5千円+税金。高いような、そうでもないような。仕上がりは見ていない。退院後取りに行く予定。1枚の写真のために、5枚程度取ったのだろうか。もっとかな。見合い写真程度しか需要がないようで、布張りの立派な台紙に張ってくれるようだ。台紙は要らないのだけれど、セットなので仕方がない。

母親が入居する予定の有料介護付老人ホームを見学に行く。車で10分程度。電車でも同じ。駅前に何もない新開地でびっくり。隣の駅はすごく開けた町なのに、エアポケットのような郊外の造成地だった。退屈しそう。母親は満足するのだろうか。しないだろうなあ。

2011年8月5日金曜日

発病、告知から12ヶ月目で、抗癌剤治療で入院

来週から、2週間程度入院して抗癌剤治療を受けることになった。心配なのは、いつまでドセタキセルが効くのか(効かなくなったら、後は緩和治療、死を待つだけ)、副作用がどの程度なのか、の二点。あまり良い話はないようなので、考えないようにしているが、NHK Eテレの健康番組などを見ていると、ついつい自分のことを考えてしまい、落ち込む。明るく生きるには、見ない、聞かないが良いかな。

母親は姉の奮闘で、実家ではなく、南関東の、われわれ子供たちが住む町の民間の老人介護施設に入居することになった。介護保険の認定が受けられる見込みなので、多少の補助が出るのだろうが、入居の一時金が数百万かかる。その立替を姉がすることになったが、毎月の年金では月々の負担は足らないので、貯金を取り崩していくことになりそう。とはいえ、一人暮らしでは不安なので、良かったかもしれない。リハビリの成果か、歩けるし、障害はあまりなさそうに見える。医師は、但し入院治療で改善された訳ではなく、いつ脳梗塞が再発してもおかしくなく、その時は死ぬだろうとのきつい宣告。

会社からは全ての私物を持ち帰り、いつ辞めても良いように整理して来た。短い人生をどう有意義に使うかの選択肢の中では、会社勤めは低い順位になりそうだ。問題は、治療費。会社の保険が使えなくなると、治療費が月々相当高額なので、厳しい。

2011年7月17日日曜日

悪いことは重なる

不幸は、同時に起こるものらしい。金曜の朝、実家の町の救急病院の医師 から電話があり、母親が脳梗塞で倒れ、入院したとのこと。直ぐに家に戻り、姉と車で(電車の方が早く着くのだが、現地で身動きが出来ないので)駆けつけたが、ICUに入院していた。脳外科の主治医によれば、水分不足等で、血栓が首の静脈に詰まり、右の小脳の一部が死んでいるとのこと。MRIの画像を見ながら説明を受ける。左脳は生きているので、運動障害や言語障害はないが、小脳は平衡感覚を司る能で、恐らく正しくは歩けないし、歩けても直ぐに転び、そうなると寝たきりになる可能性が高いとのこと。退院後、一人暮らしは無理で、施設に入るべきとの診断。またボケの症状が出ているとのこと。また、入院していても、再発の恐れはあり、最悪の場合は、死亡、手術をしても合併症で植物化のリスクも高いとの説明を受ける。誰にもそのリスクを説明するのだ、とのことで、万一の場合の手術の承諾も求められた。

83歳の老人の一人暮らしのリスクが出てしまった。金曜は特に暑かったので、電話しようと思ったのだが、恐らくはいつものように固定にも携帯にも出ないだろうし、最近掃除のため家に戻っても、口をきかないから、連絡のないのは良い便りと思ったのが間違いだった。

老人は冷房をしたがらないこと、昼間に水を飲んでも、夜寝ている間に水分補給が出来ないため、朝方脳梗塞になりやすいらしい。彼女も朝起きて、めまいで立てず、救急車を呼んだという。電話が掛けられたのは幸いだったが、前日に注意するように電話をしていればと悔やまれる。

姉は僕が面倒を見るべきと思っているので、僕の癌のこともあり、二重に病人を背負ったためか、口をきこうとしない。ICUは、面会時間も1時間だけで、実家に泊まるのも嫌だったので、直ぐに帰宅したが、姉と僕とは見舞いには一緒に行くのは当分避けようということになった。一緒に行くより、二人で別々に通った方が頻繁に行けること、二人の関係が非常に気まずいので、単独の方が気楽なことから、当分は別に実家に行くことにした。しかし、交通費だけで一回1万円以上かかるし、時間も片道3時間程度かかるので、これから大変だ。僕の入院中、入院後は帰省できないだろうし。

重病人が二人一軒の家に暮らすのは可能なのだろうか。気も会わない、相手に合わせる気もない人と暮らすのは大変だ。彼女は料理はしないし(できないだろうし)、外出されるのは困る。恐らく常時監視していないといけないのだろうが、それは可能なんだろうか。ストレスで癌が悪化することだけは間違いないような気がするのだが。

2011年7月10日日曜日

12ヶ月目でドセタキセルに

告知からまだ11ヶ月。とうとうPSAが上昇し、8.31になった。エストラサイトも効力なく、期待のステロイド剤もK大病院の先生の見立てどおり、数ヶ月で無効となった。残念。体調は良いのに。ALPは低下しており、440になった。これについて主治医に聞くが、詳しくないのか、回答なし。

直ぐにドセタキセルを開始した方が良いとのこと。秋からと思っていたので、焦った。仕事の段取り、夏休み、退職の準備など色々の予定が10月をめどに考えていた。

来週にでもと言うので、それは無理だから、来月からということにした。遅くなるとPSAが更に上がり、ドセタキセルの効きが悪くなる恐れがあるが、QOLが大幅に低下すること、どのみちドセタキセルも数ヶ月から数年の効力なので(K大の先生は数ヶ月の効き目と言っていたので、年内には効かなくなる可能性がある)、むやみに早くする必要はないと思った。

退職時期について迷う。10月かな。どうしようか。久留米大のペプチドも試したいが、遠いな。退職後は暇になるから行けると思うけれど。効くかどうかは全く不明。

2011年7月6日水曜日

NHKの緩和治療の番組を見る

NHKの教育(Eテレというらしい)で、緩和治療についての番組をやっていた。家族は見たがらなかったが、ぼくは是非にと思って見た。浜松、静岡では、緩和治療が拠点病院を中心に整備されつつあり、効果も出ており、更には在宅でも緩和治療が受けられるらしい。また、痛みを我慢するのではなく、治療(抗癌剤)開始時から、痛み、苦しみがあれば取り除くことで、QOLを維持し、ひいては延命も図れるとのこと。

今の薬で漠然と思っているのは、副作用は、過激な運動をした後、加えてストレスが溜まっている、不安な気持ちになっている、嫌なことと向き合わなければならない、という時に強く出ているような気がする。周期的なものもあると思うけれど、まだ良く分かっていない。二週間に一度程度、強い副作用が出て、だるく、眠く、ぼうっとし、注意力もなく、感情も、気力もなく、ただたた憂鬱な気分で、吐き気がし、辛い。

となると、抗鬱剤で解消が出来るのかもしれない。緩和治療の番組でも、末期患者へは麻薬を、吐き気のある乳癌患者には、抗鬱剤が処方されていた様だった。但し、僕の場合、常に強い副作用があるわけではないので、抗鬱剤を飲むのであれば強く副作用の時のみにしたいけれど、そうも行かず、常用しないといけないのだろうか。今通っている病院には、緩和治療の医者はいない。精神科はあるけれど、常時鬱状態というほどでもないので、行きたくない。困った。

この番組は、良い番組だったけれど、出演されていた末期の大腸癌の患者さんが既に死亡されていて、見ていて辛く、泣けてしまった。出演者の洞口依子?も泣いていたが。明日の自分のようで、悲しかった。

2011年7月2日土曜日

エストラサイト、プレドニゾロンの副作用続く

発症、告知が昨年の9月初めだったので、まだ10ヶ月。ホルモン療法は無効になったので、現在は、抗癌剤とステロイド剤。徐々に副作用が強くなり、昨日はまたひどい副作用に悩まされた。悪心(とはいえ、食欲はあり、食事には問題がない)、ひどい低血圧のような症状(実際には高血圧だから、おかしいが)で眠く集中できない、ぼんやりしている、憂鬱、下痢、痔に伴う痒み、怒りっぽいなど。更年期障害かな(なにせ女性ホルモンを多量に飲んでいるから)とも思う。乳首はとても痛い。

とはいえ、薬のお陰でまだ生きており、会社にも何とか通っているのだから、我慢しなくては。

こうした症状は周囲には理解されないので、それが一番辛いかな。

2011年6月22日水曜日

エストラサイトの副作用

薬の副作用は、慣れは無く、飲んだ累積量で悪化するらしいのだけれど、きついエストラサイト+プリドニゾロン(ステロイド剤)を経験した。

今までは、悪心と乳房の突出が主な副作用で、それ以外は余り感じることは無かったが、先週金曜、土曜は、それと異なり、めまい、頭がぼんやりする、疲れやすい、感情的になる、を経験した。会社へは行けず、家でごろごろしていたが、それもだるくて、寝てばかりいた。幸いに日曜から治ったが、きつかった。あれが毎日続くことになったら、仕事どころか、生きていくのにも絶望しそう。

きっかけになったと思われるのは、木曜に激しい運動(水泳)をしたこと、木曜にとても嫌なことがあり精神的に動揺したこと。

精神から副作用が発現するとは思いにくいので、恐らくは疲労感がスイッチになったのだろうか。

だから、あんまりキツイ運動は止めようかと思っている。

2011年6月12日日曜日

発症告知から10ヶ月

PSAは変わらずで、6.07だった。下がることを期待していたので、少々がっかり。その代わり、ALPが先月の828から500に下がったのが嬉しかった。大した下がり方ではないけれど。主治医は、PSAが一ケタ台のうちにドセタキセルを開始した方が効果が高いとの統計的データがあるので、それが望ましいが、副作用が激しいので、まだ見合わせた方が良いだろうとのこと。

丸山ワクチンでも、ペプチドでも何でも併用して良い、その代わり、ドセタキセルが使えなくなっても、治験は当院ではできません、とのことで、その点はがっかり。白血球数が高いのも気がかり。赤血球、ヘモグロピン、ヘマトクリットの全てが低いと出ているのは、薬のせいか。エストラサイトか、プレドニゾロンかどちらかは不明。

健康状態はすこぶる良好なのだが、癌は着々と成長しているのだろうか。来月も上昇しないと良いのだが。夏休みに旅行に行けそうなので、最後の旅行と思って出かけることにしよう。

2011年6月7日火曜日

ゾメターに備え、上顎の親知らずを二本とも抜く

御茶ノ水の大学病院に通っている。ここの歯科医師から、以前からずっと、親知らずは老人になると、歯と骨が一体化してしまい、抜きにくくなること、斜めに生えているから治療が難しいことから、今のうちに抜くように、と言われ続けてきたのだが、今年の担当の先生は抜かなくても様子見で良いと言う。一方、前立腺癌の主治医は、ゾメターを使うので、稀に上顎の骨が溶けることがあり、歯の治療が一生出来なくなるので、ステロイド剤が効いている今の内に、歯科治療を済ませておくように、との指示。

改めて、抜いた方が良いかと大学病院で聞くと、「虫歯があり、ただ初期なので抜かなくても良いのだが、そう言うことなら抜きましょう、折角なので、二本とも」、とのこと。但し、抜歯は一週間空ける必要があるとのことで、二週にわたり上の奥歯の親知らずを抜いた。上手な先生で、全く痛みは無く、あっという間に抜歯された。下顎の親知らずを抜くのに半日かかり、痛くて身もだえした経験からすると嘘みたいだった。但し、問題はその後で、抜いた後、ずっと歯が痛んでいる。ロキソニンを5錠もらったのだけれど、直ぐに使い果たしてしまった。どうも抜歯後、歯並びが変わるらしく、物を噛む時に、今までと違ったところを圧迫することで、歯が痛むようだ。

治療後3ヶ月はゾメターは使えないとのこと。ドタセキセルとゾメターは一緒に点滴するのが一般のようだけれど、ゾメターの使用は遅らさざるを得ない。どうも回復が遅いような気がする。エストラサイトの副作用かな。多分。

歯科医によれば、抜歯後処方される抗生物質は、ステロイド剤との相性が悪いらしく、抗生物質の効き目が落ちるとのこと。

抜歯後5日間抗生物質を飲んだが、その間好きな牡蠣を沢山食べてしまった。これが間違いの元で、数時間後からひどい下痢に。恐らく、普段なら牡蠣を食べても何ともないのだけれど、抗生物質で胃腸に消化する菌も全滅しているから、牡蠣の毒にあたりやすくなっているのだろうか。下痢は今も止まらず、このところ下痢ばかり。ひどい腹痛ではないので、ノロウィルスのような猛毒でなく、ごく普通の、牡蠣なら必ずいるような菌に当たったのだろう。焼いた牡蠣でも、抗生物質を服用中は避けた方が良いようだ。刺身や寿司などの生ものも避けるべきなんだろうか。

2011年5月14日土曜日

ステロイド剤が少し効き、入院は数ヶ月延期に

13日の定期検査で、PSAがほんの少しだけ低下。前月の検査時に主治医は月末から入院、化学治療開始を宣言していたが、PSAが7.16→6.11に下がったので、学会で不在の主治医の代わりの先生が、様子をもう少し見てからで良いだろうとのこと。「ドセタキセルを使っても、治療開始時のPSAが20を超えていると、薬の効果は殆どの例では半年でPSAがあがってしまうので、今の薬が少しでも効いているのならば、開始は延ばしても良いのではないか」。その後は治験薬のみ、ということは緩和治療への移行ということか。

後寿命は1、2年と宣告されたに近い。予想されていたことだが、嬉し、悲し半々といった気分。

PSAは下がったが、ALP612→828に上昇し、骨転移が進んでいる可能性があり、要注意。痛みはないので、放射線治療(恐らく30グレイ程度)はまだまだ開始しなくても大丈夫とのこと。始めると毎日病院に通い、4週間続ける必要があるので、仕事は無理になる。

外には、白血球が8900と上がっていた。どうしてこんなに増えたのか、恐らく骨転移と関係があるんだろう。

また医者から、歯はゾメターも使うので、もう二度と歯科治療が出来ないから、折角薬が効いたのだから、今のうちに治しなさいと言われたため、懸案の親知らずを抜くことにした。ゾメターはその後に使用開始することになった。
体調は、肝機能が改善したためか、好調なので、不思議。ステロイド剤は後にもあるので、使えないのか、次回に聞いてみよう。主治医は化学療法は早い方が良いとの考えだったけれど。

中庭の石楠花が来年も再来年も見られますように。

2011年5月1日日曜日

発病、告知から9ヶ月、死ぬ前にしたいこと

余命が後何年か、半年か分からない。3年生きている人もいるよと主治医は言うが、それは最長記録だろうから、平均で2年以内、悪くするとタキソテールの効果が半年、その後緩和治療で半年が良い所かもしれない。悩むのは、今すぐ会社を辞めて治療に専念すべきかどうかということ。専念したからといって、余命が延びるとは思いにくい。辞めなくても、副作用で会社に行けなくなれば、傷病休暇になり、その後退職になるから、事態はどちらでも同じように思える。

仕事には執着はない。会社も必要としていないし。退職金も会社が傾いているため、余り出ないだろう。余命が数年なので、老後の問題がないから、お金は問題ではない(とはいえ、会社の保険が使える方が有難いが)。

会社を辞めても、ホルモン治療中のような健康体(健康じゃないが、普通に暮らせると言う意味)ではないだろうから、運動は出来ないし、旅行も難しいかもしれない。せめては本を読むくらいだろうか。

作家なら、本を残す。画家なら絶筆を描く。生きた記録を作品で残す。そうした可能性がサラリーマンにはない。死にかけの病人に任せる仕事はない。このままぼんやりと暮らすのだろうか。妻子はいないので、家族と思い出作りも出来ない。このまま誰からも忘れ去られるだけか。

できることならば、好きな能をもっと見たいけれど、最近は3時間近く能楽堂の椅子に座り続けることがしんどいので、抗癌剤治療を始めたら、我慢は難しいかもしれない。頻尿もひどいし。

立つ鳥、なんとかではないが、死ぬ時には、家がからっぽというのが望ましいか。父親が死んで、死んだ人の住む家の後片付けがいかに大変か、身にしみているので、姉にはあまり迷惑を掛けたくないので。
区役所前のマロニエ。ベルギー大使館前の並木と印象が違い、花が小さいのは剪定がいいかげんなせいか。川崎ならでは。

2011年4月28日木曜日

震災、スーちゃん、自分の癌と死を考えた

末期癌と告知された時、色々な本を漁り、自分の症状がとても重篤であり、治癒せず、余命は、恐らく数年ということを理解した。しかし、どうして自分だけ、こんな目に会うのだろうと、ずっと考えていた。何か悪いことをしたのだろうか。天罰なのだろうか。運命でそうなることが決まっていたのだろうか。

癌の最大の要因は遺伝子だそうだ。前立腺癌の教科書にそう書いてあった。僕の父親が死ぬ前、前立腺癌があったと言っていた(アガリスクで治ったみたい、などとおかしなことを言っていた。結局心臓麻痺で死んだので、癌治療は一切せず、天寿をまっとうしたから、いわゆるラテント癌だったのかな)。伯父も父と同じ年で死んだのだが、死因は前立腺癌だったらしい。80過ぎの平均寿命まで生きたのだから、両人の死因については余り考えたことはなかったが、自分が癌になって見て、我が家系は立派な前立腺癌の家系だったことになる。

ウィルス説もあるらしいが、その辺は分からない。

生活習慣は、僕は肥満でない。糖尿もないし、適度な運動をし、スリムで脂肪、塩分の摂りすぎにも気をつけていた。肉は殆ど食べなかった。鶏肉を少し食べる程度だった。

但し、仕事のストレスは4年前、自分の手がけたプロジェクトが極めて困難な状況にあり、会社では周囲とも上手くいかず、プライベート面も最悪だった。父親はごみ屋敷を残し急死、母親は精神を病んでいる、という辛い状況で、葬式の前後と遺産相続の手続きの頃は半年くらい殆ど寝られなかった。鬱になる手前だったと思う。その後、転勤で暇な職場に移ったため、のんびりし、環境が激変したのが、癌細胞を活発にしたのだろうか。

48歳の時のPSAは0.1だったので、安心したのが大間違いだった。これが55歳直前に、35になっていたのだから。

しかし、死ぬべき理由もないのに、死が目前に迫っていた。悪質な癌だから、予後が極めて悪いことが知られていたし、そう予想された。結局その通りの展開となった。骨転移があり、根治治療ができず、ホルモン療法も半年しか効かなかった。

天罰か。信心はないから、そんなことは信じない。恐らく、説明し難い、運というのか、天命とも違う、天の気まぐれなんだろう。震災で多くの人が死んだけれど、天罰で死んだ訳ではない。津波に逃げ遅れたのには、それなりの理由があったにせよ、殆どの人にとっては、たまたまそこにいて、ちょっとしたことが妨げとなって逃れられなかっただけだろう。運が悪いということで、予めそうなる運命だったとは思わない。偶然そうなった、というだけのことだろう。

スーちゃんの死についても、義妹の夏目雅子も白血病だったけど、それはたまたまで、特別な理由があった訳じゃないと思う。

自分の癌も、たまたま運が悪くて、不慮の交通事故か震災で死ぬように、癌で人より早めに死ぬのかな、と今では思うようにしている。そうでないと、悲しくて、辛くて、やっていけないだろう。震災の多くの死者も、死ぬ定めだった訳じゃなく、たまたま籤に当たってしまったように、その人には抗えない力で、でもその力は気まぐれでその人を選んだだけなんだろうと思う。

死を受け入れる気持ちが無いと、夜寝られない。これって、宗教に近い考え方なんだろうか。学が無くて、よく分からないけど。

2011年4月25日月曜日

スーちゃんの葬儀で流れた挨拶

7時のNHKニュースで田中好子の葬儀の模様を放送していた。驚かされたのは、本人が録音した、死を覚悟した葬儀の際に流すための参列者への挨拶のテープ。絶え絶えの声だったが、幸せな人生だった、と感謝の辞が述べられていた。芸能人だったからなのか、それとも、そういうことを特に本人が望んだのか。3月23日頃録音したとの解説があったので、その後は昏睡状態だったんだろう。真似の出来ない死に方に、感心するとともに、その勇気に、涙が出た。僕には出来ないだろうなあ。遺言くらいは書けるけれど、肉声での葬儀用の挨拶とは。

2011年4月22日金曜日

今飲んでいる薬

来月から始まる化学療法(抗癌剤治療)の前に、ゾメターを使うと歯科治療ができなくなるため、歯科医へ行き、かねてから勧められていた親知らずを抜くことと、主治医から聞くように言われていた、抜歯からゾメターの使用までどのくらいの間隔を空けるべきかを聞いた。

歯科医は、病院内の口腔外科医に聞いてきたといって、3ヶ月空けよとのこと。来月からの治療なので、困ったなと思ったが、親知らずは抜く必要はなく、観察で良いだろうとの診断。別の医者は抜けと言っていたが、同じ病院でも先生によって見立てが異なるらしい。でも将来的に治療が不可能になるので、リスクを取った判断になった。もっと前に抜いておくべきだった。しかし、前の先生の時には癌との診断を受ける前だったので、直ぐに抜くべき理由もなかったのだが。

歯科医で、今飲んでいる薬を聞かれた。

エストラサイトカプセル156.7mg 一日4錠(朝夕に2錠)(女性ホルモン、窒素マスタードという抗癌剤を含む)
プレドニゾロン錠5mg 一日2錠(朝昼に1錠) (ステロイド) 
ウルソ 50mg 一日3錠 (ホルモン療法薬の副作用である肝臓障害の改善)
タケプロンOD錠 15mg 一日1錠 (同じく副作用である胃腸障害の改善)

このほかに、内科で貰った

アムロジピン錠2.5mg 一日1錠 (高血圧の薬)

耳鼻科で貰った

アレグラ 一日2錠 (朝、夕1錠) (花粉症の薬)

眼科で貰った

トラバタンズ (点眼薬)(緑内障の進行を防止)


プレドニゾロンは緑内障に悪い影響があるとのことだが、失明のリスクより、前立腺で死ぬリスクの方が切迫しているため、緑内障は諦め。右目の視野は左の半分程度になってしまった。

「がんサポート4月号」によると、抗癌剤が効いていると、副作用も強くでるものらしい。今は悪心もなくなり、健康に過ごしている。ということは効いていないということなのだろうか。唯一、乳首が痛いが、これはエストラサイト特有の副作用。副作用は慣れはなく、累積的に影響があるらしいけれど。乳首はどんどん大きくなっている。見苦しい寸前てところ。

2011年4月15日金曜日

エストラサイトもあまり効果なく、化学療法へ

今日の検査で、PSAがまた上昇し、7.16に。主治医は、エストラサイトの効果でこの程度なのかもしれないと言う。骨転移に関係するALPも上昇し612になってしまい、化学療法を直ぐに始めた方が良いだろうとの宣告。

もしエストラサイトがもっと効いて、PSAが下がれば、或いは横ばいならば、エストラサイトのみ続ける選択肢もあったと思うが、タキソテールはPSAがあまり高くない段階で始める方が良いことが知られているので、来月から入院治療となる。今歯科の治療中であり、ゾメタも併用するので、歯科の治療完了後、2週間程度入院となる予定。

タキソテールの効き目は様々で、一般にホルモン療法が効かない場合には、タキソテールも効かない。3週間で1クールというらしい。タキソテールを10クール以上続けられれば、ということは30週ということになるが、210日ということだが、生存率の中央値は600日。365日が1年なので、2年弱。3年の生存率が3割。

まだ、治療開始から7ヶ月である。良く行って、後3年しか生きられないかもしれないという事実は結構辛い。

会社勤めどころではないのだ、と実感。傷病休暇も考えようかと思っている。

2011年4月6日水曜日

エストラサイトの副作用

悪心については、慣れてきた。気持ちがいつも悪かったが、半月たち我慢できるようになってきた。おなかが空くと気持ち悪さが増すので、間食している。甘いお菓子を食べる。太るが、副作用克服を優先。匂いのする食品がだめなのは変わらず。匂いは我慢して食べれば食べられる。神経がやられているためらしいので、胃ではないから、食べられる。味覚が変になりつつあるのかもしれないと思うことは、今のところなし。

乳首の腫れは、結構きつく、痛い。乳首が飛び出しているので、ちょっとしたことで痛い。良く女の子が乳房を庇うしぐさをする訳がわかった。恥ずかしいからじゃなくて、痛いから、とっさに守るのね。初老になって、思春期の女の子の気持ちが分かるなんて、素敵なのか、どうなのか。乳房までは腫れていない。まだまだ半月だからかな。

効いているのか、どうかが一番の不安。もし効き目がないとすると、抗癌剤治療になる。抗癌剤の効力も数年か。一年か。

電車から見る桜を見て、春がまたやってきた、地震があろうと、原発が爆発しようと、植物の強さを感じる。自然には勝てない。

2011年4月1日金曜日

同病の方の存在を知る

紅葉さんのブログではD2患者のブログは少なく、情報も少ないとのことだったので、この先がどうなるか不安ばかりなのだが、幸い(という言い方は不謹慎か)、同じ症状の方がいらっしゃったので、私一人でないということが確認できた(コメントがスパム扱いされてしまっており、表示方法が素人の悲しさで分からず、あべるっちさん、失礼しました)。

エストラサイトに変えて半月、腰の痛みはなくなりつつあり、オダインよりも効いているような気はするのだけれど、4月中旬のSPA検査を見てみないことには分からない。

今の仕事が続けられるのだったら、良いのだけれど。化学療法開始に当たっては、入院も必要なので、会社に告知せざるをえず、来年停年なので、再就職はまずもって不可能になると思うが、震災で会社が倒産しつつあり、その可能性もなくなりつつあるので、治療一本になるかもしれない。収入は別として、悩まずに済むので、すっきりして良いかもしれないと思う。

2011年3月31日木曜日

断捨離しなかった食器が役に立ったかも

福島の原発避難民が大勢着の身着のままで関東圏に来ている。会社の人の知人の家族が千葉の公団に定住することになったが、食器も布団も衣類も何もないとのこと。お金よりも、物が直ぐに必要というので、家の中の使っていない食器類をスーツケースに詰めて、会社に持っていった。重い。がさばる。満員電車では迷惑だったろうが、朝いつもより早く出て、2時間もかかったけれど、何とか会社まで持って行った。10キロ分くらいあったかな。どうしてこんなに食器を溜めたのか。益子、笠間、美濃。ノリタケ。今はこうしたものは趣味じゃない。今は殆どが有田の磁器。

しかし、自分が被災して同じ目にあったなら、どうするんだろう。他人に貰った食器は趣味じゃないなあ、と毎日思いながら暮らすんだろうか。難民生活は贅沢は言えないにせよ、仮の宿りで一生を過ごすのは辛い。

福島の人たちが幸せでありますように。

2011年3月30日水曜日

エストラサイトの副作用

エストラサイトにオダインから切り替えて約2週間。4日目から、気分が悪くなり、これが悪心というものか、と思った。食後2時間くらいから(ということは服用後ということだが)、気持ちが悪くなる。食事があまり食べたくなくなる。今まで平気だった玄米の匂いがたまらなく嫌、切干大根も嫌、焼さばも嫌と、匂いのするものが食べたくない。ただ胃がもたれている訳ではないので、食欲はあり、食事が困難ということではないが、メニューに困る。結局、うどんとか蕎麦とかばかり食べている。

頻尿は、オダインの時より良くなった。オダインの時は、夜2時間おきに起きてトイレに行っていたが、今は大丈夫。駅では必ずトイレには行くけれど、オダインの時は電車を降りてトイレに行き、通勤途上で3回も行ったこともあるから、頻度は大きく減った。オダインの時はバス旅行は無理。今も自信がないけれども。

女性ホルモンのせいか、血圧が上がっているのか、耳鳴りがする。また乳首が腫れて痛い。女性みたいに乳首が立っている。これが結構触ると痛い。

薬が効いてくれれば、こんな程度の副作用はどうってことないんだが。

2011年3月25日金曜日

気落ちしたら、湯治

医学的な効果は無さそうだが、精神的な効果を期待して、又もや新潟の栃尾又温泉に湯治に。温いため、寝てばかりで死を忘れる。ぼんやりしている。痛みも和らぐし。癌には効かなくても、精神には良さそう。ただ、食事が単調で飽きるのと、雪でどこへも行けないため、運動不足でフラストレーションがたまる。おばあさんばかりなのは、おばあさんに効く何かがあるのかな。体にラジウムの泡がつくので、細胞の活性化には良い影響があるらしいが。

花粉症の緩和を期待したが、花粉は雪国の上空も覆っているらしく、喘息症状は改善せず。

前回、マーラーの交響曲全集を持っていって退屈したので、今回は、そうでもしないと聞かないブルックナーとベートーベン。前者は眠くなるので正解。次回は指輪の全曲かな。

2011年3月18日金曜日

PSA再上昇でオダインからエストラサイトに切り替え

とうとう、オダインも効かなかった。特に自覚症状はないのだが、今日の検診でPSAが5.45に上昇してしまい、オダインも効いていないことが明らかになった。となると、次は主治医はプロスタールはもっと効き目が弱いから、エストラサイトにしますとの予告どおり、女性ホルモン剤であるエストラサイトに切り替えることになった。

副作用が強いので心配で、特に循環器系に影響があるかもしれない。肝臓の調子は良いのだが、悪影響があるかもしれない。女性化は、死と比べるならばたいした問題ではないけれど、更年期障害は、結構生きる勇気や元気を阻害するもので、やるきが無くなるかもしれない。

「生きようとする意志が萎れている」とは診断の際に同席していた姉の言葉。確かに、意気消沈しているかもしれない。元気を出そうというより、挫けないようにしているので今や精一杯。泣かない、悲しまない。でも笑うことはまだできない。

「来月、エストラサイトが効いているか、確かめましょう、でも効かない可能性が大きいと思う」と主治医は言っていた。抗がん剤が効く場合もあり、5年程度生きている方もいるらしい。どんな人に効くかは分かっていないとのこと。全てはトライアンドエラー。

2011年3月17日木曜日

暖房の無い会社

節電のため、会社が暖房を切っている。寒い。とはいえ、状況が状況なだけに、我慢の毎日。

以前、知り合いの原子力学者から、福島第一原発のリスク、特に大津波が来た時の脆弱性について何度か聞いた。恐らく東電の幹部もこのことは認識していた筈だが、残念ながら、コストダウン優先だったようだ。外部電源が万一の時に機能しないリスクについては、広瀬隆氏も指摘していたが、反対派と同じ意見ということで、顧みられなかったのだろうか。

2011年3月13日日曜日

歩いて友人宅に避難

会社で地震に会い、家には帰れないので、比較的近くの知人宅に避難した。徒歩で2時間。癌のせいなのか、体力の衰えを感じた。歩く早さが遅く、どんどん追い抜かれる。エレベーターが動かないため、7階の知人の部屋まで登るのが一番辛かった。手すりがあったから良かったけれど、無かったら、休み休みだっただろう。

翌朝、動き出した電車で家に戻るが、気力が衰えている。TVを見て、生きているだけ幸せだと思った。しかし、もし病院が被災したら、癌患者はどうなるのだろう。トリアージュ上は後回しだろうなあ。

これから東京は計画停電になるらしい。日本経済の行く末と、病院の電源が心配。

2011年3月11日金曜日

オダイン錠の副作用

ホルモン療法を始めて、カソデックスはたった半年で効かなくなったため、2月からオダインに切り替えている。飲む回数が一日三回なので、昼の分が飲めなかったり、飲むのを忘れたりして、苦労している。薬を飲むのを忘れることは多い。

薬を貰うと、尿が黄色くなると注意書き。確かに白いパンツが黄色く汚れている。カソデックスではそうしたことはなかった。何のせいだろう。オダインの包装もオレンジ色をしている。

問題は頻尿。夜はほぼ1時間か2時間おきに起きないといけない。熟睡できない。花粉もひどいので、熟睡出来ない度はすごい。

でも、薬が効かないと分かったときの衝撃に比べれば、何の問題もない。効いてくれることを祈るばかり。抗癌剤の副作用に比べれば、どうってことないだろう。

カソデックスの副作用より、頻尿を除けば、副作用の程度は弱いと思う。

2011年2月28日月曜日

気分転換に箱根へ

湯治が癌に効かないことは承知だが、気分が余りにも鬱々としたため、会社の補助金(カフェテリアプラン)を使って、箱根の高級旅館へ行ってきた。一泊3万円もする。一生もう行くことはないだろう旅館。昭和天皇が泊った旅館として有名で、昔岩崎家の別荘だったもの。今はファン○ルの会長がやっているらしい。

広大な庭の手入れと建物の手入れにお金が掛かるし、人件費も嵩むし、余り儲からないだろうと思う。部屋に鍵もなく、トイレもなく、それでいて3万円。夢のような旅館。とはいえ、料理は最高の部類で、他の部屋の客に殆ど会わず、静かで、のんびりして、建物も懐かしさに溢れていて、静養にはとても良かった。しかし、三泊で10万円も使ってしまった。

食事には牛、豚は避けてもらい、玄米も出してもらった。コーヒーも、みかんも飲み放題。ゆっくりできたので、精神が病む寸前だったのが、何とか持ち直したような気がする。

いわゆる冥土の土産かな。

再燃、ホルモン療法の薬を変更

1月末のPSAが0.46に上昇し、不安に苛まれていたが、2月末のPSAは急上昇し、2.86になってしまった。主治医は、再燃だよ、とのこと。こうしば場合には、普通であれば一度カソデックスを止める中止療法を行うが、上昇幅が大きいので、危険なため、即時にオダイン錠に変更するとのこと。カソデックスの増量も効果は無く、カソデックスが悪い作用をしている可能性があるとのことなので、まだ錠剤は沢山あるが、中止。

オダインが効かない場合には、標準治療では、昔の薬のプロスタールにさらに変える手があるが、効かないだろうから、プロスタールでなく、即抗癌剤の使用を検討することになるだろうと言う。

半年しかカソデックスは効かなかった。となると、それより弱いオダインの命も半年がせいぜいか。抗癌剤も長くは効かない。効いている人もいるが、低分化、Gスコア9の悪性ながん細胞には効力の程は分からない。

不安で、この日はとても気がめいってしまった。

2011年2月13日日曜日

雪の中、一日湯治へ

湯治で癌が良くなるかどうかは不明。玉川温泉は効くというが、何が効いているのか不明。放射線なのか、強酸性の湯なのか。前者だろうと思うが、証明はされていない。長岡温泉の弘法の湯は、北投石を配置して、ラドンを発生させているとしているが、これも見えないものだから、良く分からない。

今回は、一泊で伊東へ。ここの湯量は豊富なこと、熱いことから、湯治向きではないのだけれど(熱いと長く入れず、芯まで温まらない。汗は沢山でるが)。一泊一人、土日でも7,200円の旅館を発見し、試しに行ってみる。近くて、楽だったが、湯が熱く、部屋は寒く、風情はなく、長居は難しいと感じた。湯治は最低でも三泊はしたいので、伊東では無理っぽかった。食事は満足したが、食べすぎてしまった。

今まで関東周辺で、湯治目的で行った温泉場の良し悪しを比較。

伊東  良いところ 安い(一泊一万円以下)。近い(片道2時間)。暖かい。庶民的。便利。
悪いところ 湯が熱い。市街地なので、気分転換に余りならない。

箱根  良いところ 近い(片道1時間強)、山の中なので気分転換になる。買物に不便。
悪いところ 湯が熱い。高い(一泊一万円以下は殆どない)。寒い。湯治場の風情なし。

湯河原 良いところ 安い(一万円以下もある)。近い(1時間半程度)。便利。
悪いところ 湯が熱い。

長岡  良いところ 近い(2時間半程度)。安い(一泊一万円以下あり)。スーパーあり、便利。
悪いところ 湯が熱い。市街地。

湯本  良いところ 近い(2時間)。便利。
悪いところ 湯が熱い。市街地で風情がない。高い(一泊一万円以下は平日だけ)。


とどれも似たりよったり。結局のところ、湯が熱いのが難点。癌に効くかもしれないラジウム温泉の増富は温すぎ。35度だと、冬場は厳しい。
湯の温度的には、同じくラジウム温泉の栃尾又が長湯向きの温泉で良いかも。川治も同じく、温くて結構だけれども、湯治向きの旅館が無いのが難点か。

次に試すべきは、どこの温泉かな。姉は玉川を勧めるが、遠くて高いので、勤めていては無理と思う。

2011年2月12日土曜日

「切らずに治すがん治療」中川恵一著を読む

東大の放射線科の中川先生が書いた本を読む。癌に対する放射線治療の効果は、悪質とされる低分化癌に良く効き、上皮癌、腺癌の順で効くとのこと。ちなみに、前立腺癌は腺癌なので、まあまあ効くらしい。僕は低分化癌で、グリソンスコアが9なので、まさにぴったりなのだが、癌細胞が既に全身に転移しているD2なので、標準治療では、放射線はまず受けられないのかと思っていた。

実はそうでもないようで、癌細胞は全身に散っているため、根治はできないが、大きな腫瘍は抑えられるらしい。でもなぜ、D2では放射線治療をしてくれないのだろう。治らないのだから、治る人を優先したいということか。それも理屈として分るが、大きくなった病巣を小さくできるのであれば、試みるべきとも思うのだが。医療費抑制の面の問題なのだろうか。

良く分からない。一度放射線医のセカンドオピニオンを貰って見たいと思った。

2011年1月25日火曜日

元気を出すには

他の癌患者の書いた闘病記を、姉から貰い読んでいる。彼女が膨大なブログを整理し、焼いて届けてくれる。他の方がどう悩んでいるのか、特に余命がどうなのか、知りたい。参考になるものは少ないと思っていたが、それは検索が不十分だったせいかもしれない。

紅葉さんのブログによれば、病期D2(リンパ腺ではない、他の臓器への転移癌あり)の方のブログは少なく、またあっても途中で終わっていることが多い(亡くなられたのだろう)らしい。

色々読み進むうちに、病期Dでも結構長く生きていられる方もあり、今拝見している四国の方のブログなどは、奥様が不幸にして急性の白血病で先立たれるなど、病期発見当初予想していたのとは全く異なる展開に、戸惑われている例もあり、様々。一般化は難しいと思った。当然ながら、グリソンスコア9でD2 の僕の余命も、どうなるかは治療して見ないと分らないのだけれど。

悩んでもしょうがないので、楽しいことを考える。旅行は海外は諦め、国内もバスツアーはトイレが心配で諦め、最近は湯治ばかりだけれども。湯治は、一時でも癌のことを忘れさせてくれる(そもそも湯治に行く理由が癌なので変ですね)。また、水泳教室でも、自分が癌ということを忘れられる。でも、一番は、最近は仕事かも、と思えるようになってきた。ストレスのあまりない職場なら、仕事を続けた方が良いのではないか、と最近思っている。収入面の不安もあり、健康(とはいえないが、頻繁に病院とトイレに行くことを除けば、今の状態ならば普通に通勤、勤務はできるので)が許せば、仕事を続けたい。

先月までは、早く退職して治療に専念と思ったり、母親の介護を、とか考えたが、暇だと癌のことばかり考えてしまうし、所得ゼロも困る。年金は出ないし。母親は、気が会わない、同居は苦痛だし、転居も治療を考えると難しい、今のところ母親も一人でなんとかなっている、などで今は諦めつつある。

2011年1月24日月曜日

PSAが上昇、湯治へ

1月21日は、癌が告知される以前に申し込んでいた人間ドックの日だった。半年前から予約が必要なところだったので、今頃になった。PSAも検査項目に含まれている。結果について、医師から説明を受けている際、データを見ると、PSAが0.45に跳ね上がっている。0.1台かと思っていたので、びっくりした。慌てて、同じ病院内で癌治療を受けているため、主治医に走り、どうしたことかと聞くと、「ホルモン療法をやっていて、手術て前立腺を切ったわけではないから、PSAが出ることはある」とのこと。しかし、3ヶ月後の検査では不十分ということで、2月にももう一度検査をすることになった。

この日は完全にパニック。もしカソデックスが効かないということになったら、余命は確実に減ってしまう。セカンドラインの薬が効く可能性はファーストより小さい。泣きそうになった。(というか、電車では泣いていた。)

悩んでいても仕方が無いので、予定通り、伊豆長岡の「弘法の湯」へ湯治に出かけた。ここのメリットは安いこと。一人でも泊れること。湯は熱くてあんまり好みじゃないのだけれど、岩盤浴があり、岩盤浴+ミストシャワー+北投石のストーンセラピー(弱い放射線被爆?)の三点セットをこなしていると、時間が潰れ、あまり退屈しない。食事も安い(朝食850円、夕食1050円)、野菜ジュースも売っている、玄米が食べ放題(とはいってもそれ程食べないけれど)、などなど。

湯治で癌が良くなるとすれば、精神面で参っていると、免疫機能も落ちるだろうから、風呂の力で、リラックスし、その副次的な効果で、免疫力の増進、癌細胞の増加抑制という効果だろうか。全く証明されていないけれど、効くと信じて湯治に行くことにしている。家にいて、泣いたり、鬱になるより、風呂で癌と格闘している自分の方が好きだし。

この宿に、普通の客も結構いて、食事も豪華でないし、家族向きじゃないし、健康な人には雰囲気暗いだろうけれど、と思うのだが、割安なのが受けている理由らしい。湯治2泊で13,500円。東京からは、2時間半程度で着くし、特急で往復しても、2万円ちょっとで済む。

有難い宿だ。またよろしくお願いします。

2011年1月20日木曜日

人参ジュースの絞りかすでふりかけもどきを作るが失敗

一回に人参を二本か、三本ジュースにするので、毎日二回ジュースを飲むと大変なことになる。最近はカスの量にまいったので、冷凍ジュースで誤魔化したり、ペットボトル入りの人参ジュースで代用する日々。

今日は会社を休んだので(休養じゃ!)、折角なので人参ジュースを絞り、カスを利用した料理を作ることにしたが、カレーはまだ冷凍してあるし、パンケーキもまだ余裕があるけれど、一番自分で好評なのはパンケーキだったので、パンケーキを作り、余った分で人参ふりかけを作ってみた。人参を乾煎りし、小さくなったところに、醤油、みりん、酒、日本酒を加えてみた。まずい。多分もっと砂糖と塩を入れるべきなんだろうけれど、試しに作っただけなので、よしとする。納豆に混ぜてみようか。

家には有線が入っている。オペラチャンネルに会わせきりなので、勝手に色々なオペラがかかる。今朝は、プーランクの「カルメル修道女との対話」。陰惨なオペラで、出演者の全員が断頭台行きとなる、フランス革命の話。フランス語は聞き取れないので、ぼんやり聞いていた。内容が分ったら、朝から悲惨すぎるかも。ベルクのような音楽かと思っていたら、そうでもなく、聞きやすかったのが意外な感じ。とはいえ、朝から料理しながら聞く音楽かね。

2011年1月18日火曜日

山田元京大教授の前立腺癌闘病記「ある科学者の闘病の軌跡」を読む

元京大教授で、奈良先端科学技術大の元学長だった山田康之氏の闘病記を読んだ。自分の病歴と比較してみると、なかなかすごい人生を送られている。

発病時年齢 63歳(94年)      (自分の場合 55歳、2010年)
グリソンスコア 7(中分化がん)  (9 低分化がんでより悪質)
PSA     118              (35)
転移 リンパ節(D1)         (骨盤、D2)

癌そのものはぼくのものの方がたちが悪い。

63歳で、LH-RHの注射を開始  (55歳でLH-RHの注射を開始)
プロスタールL錠を飲む  (カソデックス80mgを飲む)
64歳(95年) PSA 1台に低下
67歳(98年) PSA上昇で再燃
京大で放射線照射70グレイ
副作用で入院
PSA0.02に低下
68歳(99年)カソデックスの輸入使用が解禁、服用
PSA0.2から0.5で推移
71歳(2002年)PSA再上昇、2から3に
東海大八王子病院で超音波治療
72歳(2003年)PSA1に低下したが再上昇のため、再度東海大八王子病院で超音波治療
閉尿になる、5ヶ月間入院
人工肛門をつける
カソデックス服用を中止(2年服用とあり、服用開始は70歳?)
73歳(2004年)入退院を繰り返す
75歳(2006年)PSA再上昇、30に
抗癌剤エクストラサイト服用開始
PSA10台に、現在に至る(2009年時点)

一般に、病期がDの前立腺癌患者の平均余命は、5年生存率が2から3割、10年が6%程度というデータがある(伊藤晴夫、メデイカルビュー、2004年)ので、長生きをされている。それも、その間に、京大教授だけでなく、新たな大学の学長、日本の学士院会員、アメリカの科学アカデミーの会員も勤め、今上天皇への進講もされるなど、活躍されている。ある程度の責任を持っていたほうが癌に良い、との主治医のアドバイスがあったようだ。普通ならば60過ぎて末期癌になれば、仕事は辞めるだろう。余人に代えがたいという状況があり、また教授は時間的な制約がサラリーマンと違い、治療と両立しやすい環境にあり、またかかっていた病院が京大でもあり、環境が良かったのかもしれない。

骨に転移がなかったことが幸いをしているのかもしれない。骨転移は痛みが激しく、活動もできなくなるから、状況が良かったのかもしれない。

カソデックスが良く効くらしい。新しい薬の効果というのがあるのかもしれない。

人工肛門をつける時には、家族は自殺を心配したらしい。それだけ、危機的だったということのようだ。本書では淡々と語られているため、見過ごしそうになったが。

支えは、家族、友人、知人だそうだ。僕の場合、家族は兄弟だけ、子供も妻もない。友人も心許ない。

2011年1月17日月曜日

副作用

今飲んでいる薬。前立腺癌では、カソデックス80mgを毎日一錠、毎朝。(他に、リューブリンを3ヶ月に一回注射している。)副作用として、肝機能が落ちているため、ウルソ50を一日三回、一回1錠。更に、胃腸が悪化したため、主治医にお願いして、タケプロンOD15を一日一錠、夜飲んでいる。

他に、花粉症のため、クラリチン10mgを一日一錠、毎朝。

肝臓の機能はどんどん落ちており、機能の夜、日本酒を1号程度飲んだら、夜気持ちが悪く、起きてしまった。手は黄疸気味で黄色い。大丈夫か。今度主治医に会ったら、聞いて見よう。あまり関心ないかもしれないけれど。

更年期症状と同じ、つまり、気分が重い、ホットフラッシュが出る、だるい、頭痛、疲れやすい、などに加えて、最近は前身が痒い。花粉で同じ症状が出る。そのために、クラリチンを飲んでおり、鼻水や目、喉の症状は今のところ治まっている(飲まないと鼻水はすごい)。本格的な花粉症の季節前なのだけれど、痒い。カソデックスの副作用にもこういうのがある模様。3日ほど寝られず。これも主治医に聞いて見よう(会うのは三月末だが)。

頻尿も、カソデックス、リューブリンの副作用だった可能性がある。副作用の項を目をさらにして見ると小さく書いてあった。しかし、今では余り気にならなくなった。どうしてだろう。やはり精神的なものだったのだろうか。

リューブリンによる腕の腫れ、肉芽症状は続いており、少々憂鬱。生きている限り打たなければいけない注射なので、そのたびに肉芽になるのでは、銭湯とか、公衆の風呂に入れないなあ。もっとも、効かなくなれば(それは死を意味するけれど)、打たなくても良くなるのだが。別の注射を打っても同じだろうか。ペプチドワクチンを打っても、同じらしいけれど。

2011年1月10日月曜日

休日は料理

恐らく科学的には全く証明されていない食と癌。済陽先生は、食が癌の最大の原因のひとつであって、その改善があれば治らない癌も治癒する可能性があるかもしれない、と楽観的なことを仰っている。とはいえ、そのメソッドは一日に野菜ジュースを2リットル飲むというものだったりするから、大変なのだが。

帯津先生は、もっと気楽な方法を提唱されている。

主治医に、食事について聞くと、「好きなものを好きなだけ食べなさい」という、極めて科学的なもの。でも、アメリカでも、日本でも、癌が好転あるいは延命している人に、食事療法をやっている人が多いらしい(とはいえ、統計的な証明はない)ので、玄米、全粒粉、塩分控えめ、牛肉、豚肉は家では食べない(外食だとどうしても入っていることがあるからそれは受け入れる)、鳥は少し、魚は赤身は鮭だけ、あとは白身魚、カロリー控えめ、根菜、トマト、にんにく、ゴマ油、オリーブ油は多く取るなどの、済陽式を楽にしたものでやっている。人参ジュースは作って飲むが、野菜ジュースは作るのが大変なので、スーパーで買ったパック品。でも1リットルも飲めません。

人参ジュースのカスが大量に生産される。捨てていたが、もったいないので、休日は大量に調理し、冷凍して貯蔵し、毎日食べている。昼も弁当持参。今日は人参パンケーキと、人参カレー、かぼちゃ、サツマイモ、金柑のはちみつ漬けなどを作った。

でも半日調理しているっていうのも、それも50代の初老の男が、ひとりでね。わびしいかも。

2011年1月7日金曜日

リューブリンで腕が腫れた

右腕に12月末にしたリューブリンの注射の跡が痛い。赤く腫れている。我慢出来るが、化膿している可能性がある。副作用でこういうことがあるらしい。また肉芽になってしまうのだろうか。

2011年1月6日木曜日

紅葉さんのHPでは前立腺癌はD2でも5年生存率は100%と言っているが

姉に勧められ、紅葉さんが旦那さん(前立腺癌D2で長らく闘病されていたが、残念ながら最近逝去された)について書かれたブログのコピーを貰い、読んでいる。その中に、薬の改善により、今では5年生存率はほぼ100%になった、と書かれている。根拠となっているデータが言及されていないので、本当かどうかわからない。国立癌センター等の統計では、昔のもので、余命が短いため治療をしない老人も含むとはいえ、D2の中央値は3年、5年生存率は1、2割程度、若年の患者の予後は悪いとされていたので、本当であれば、とても嬉しい。

でも、根拠は何なのだろう。前立腺癌についての最新の教科書を読むと、より早く死ぬ人の症例ばかりが紹介されており、それほど薬が改善されたとは考えにくいのだが。

とはいえ、データではなくて、実感としてであっても、D2でも5年は殆どの患者が生きているのであれば、僕も60歳までは生きられそうだということでもあるので、嬉しい。

2011年1月4日火曜日

母親に癌のことを告げる

48歳の時のPSA検査は、0.1となっており、全く問題がなかったのに、54歳のPSAは35である。その間は、PSA検査はやっていない。毎年検査すべきものと知らなかったし、48歳で0.1なので、その必要は当分ないと勘違いしていた。だから肺癌、膵臓癌の検査ばかりやっていた。実は伯父に前立腺癌を患って死んだものがいるのだが、82歳でなくなったため、癌での死というより、老衰に近かった印象であり、身近な癌と思っていなかった。

しかし、癌の勉強をすると、癌は、遺伝子が要因として一番重要で、次に生活習慣とストレスのようだ。ストレスには化学物質も含まれるのだろうが、精神的ストレスが一番重要だろう。

僕は50歳の時に大きな試練があり、公私ともに辛い日々を送っていた。今にして思えば、それが発病の引き金となったストレスだろうと思う。会社で孤立し、プロジェクトが進展せず、挫折した。プロジェクトはその後曲折を経て、上手くいっているが、今や僕との関係は全くない。パートナーとの関係も危機を迎えていた。そして父が死に、母親が精神的に異常な行動を示していた。ごみ屋敷と化していた実家を母親の介護用に改造したが、母親の妨害に会い、精神的に参った。実家が遠かったこともきつく、疲れから、運転していて高速を何度も間違えた。母親が父親の死を受け入れられず、子供のせいにしたことも辛かった。こうしたことが同時に進展し、死にたいと思った。体は正直に、死へのスイッチを押したのだろうか。今では死にたくないのだが、当時は、死にたいと本気で思っていた。

癌を治すには(病期D2では治癒の可能性はないが)、癌のストレスと向き合い、許し、受け入れる必要があると思っている。でないと、いつ悪化するか分らないから。しかし、ストレスの原因が母親だったり、パートナーだったりする訳で、なかなか問題解決ができない。母親とは以後会話が直接できず、姉を通じた会話しか成立していない。和解をどうやってするのか、ずっと悩んでいた。そうしたこともあって、癌のことを言えずにいた。姉夫婦は、僕の意思を尊重すると言ってくれたが、いつかは伝えなければいけないから、早く告知した方が良いとアドバイスをくれた。

余計な心配をさせて、頭がまたおかしくなるのじゃないか、癌になったのは、自業自得だと責めるんじゃないか、とか不安だったが、正月休みを利用した家族旅行の際に、二人だけになった夜、癌であること、予後が良くないとされており、数年で死ぬ可能せいがあること、母親の老後の面倒を見ることはできそうもないこと、等を告げると、あまり深刻な反応もなく、翌日も何も言うことはなく、淡々と旅行は終わった。

83歳の母親と55歳の僕のどちらが先に死ぬのだろうか。5年の余命ならばほぼ同時期という可能性もある。

ずっと親不孝だったとの負い目があるので、癌になったのを機会に会社を辞め、田舎に戻り、親と同居し、面倒を見るのも良いかと考えることはあるが、治療を考えると東京に居たいし、母親との同居は苦痛で(会話も成立しない相手と生活するのかと思うだけで辛い)、ストレスから癌の進行を早めるだけのような気もする。だから、ひどい息子だと思うけれど、面倒を見ることはできない、と正直に告げた。母親が僕の面倒を見ることも当然できない。誰が僕の面倒を見るのか、僕は末期癌の独居老人になるのだ。先のことは分らない。

死を受け入れる

癌の本を良く読んでいる。そればかり読んでいると言っても過言でないかも。他には、少々漫画、能の本、温泉のガイド本。それ以外は、頭に入らないのか、あまり興味がないのか、読めなくなっている。図書館から借りているのも、能、温泉、癌の本ばかり。

読んで分かったことは、末期癌は基本的に直らない。抗癌剤も直すことはできず、延命を図るだけ(それでも価値があるけれど)。抗癌剤には重大な副作用がある。癌患者の多くは精神的に不安定になり、鬱になりやすく、自殺願望も時として生まれる。家族の支えが重要。などなど。

僕は独り者なので、家族の支えはない。知人、友人にとって癌患者は支えるには重過ぎる。家族は母親が地方で一人暮らしで、彼女の方が支えが必要な状況。近所の姉には家族があり、最期は緩和病棟か、ホスピスに入ることになるだろう。家で一人でも最期を迎えられたら良いのだけれど、地域にそうした体制が整っていない限り、難しいようだ。

死ぬのは怖い。今までは死ぬことは怖くないが痛いのは怖い、とTVで見た正岡子規の台詞と同じようなことを考えていたが、正月休みに風邪で朦朧としただけで、死にたくないと思った。何が何でも死にたくない。でも、選択肢はなく、数年後痛みと死がやってくる。どうやって死を受け入れるのか、分からない。孤独な死はつらいが、自分で選択した人生なので、受け入れるしかない。運命というか、定めとして、受け入れるしかない。選択肢はない。

胃と肝臓の薬が変わる

12月27日の検診の際に、肝臓の値が悪いとのことで、薬が変更になった。ウルソを一日3錠。そして胃が悪いため、タケプロンOD錠を一日1錠処方された。カソデックスの副作用としては、肝機能障害が起こることが良く知られているため、予想されていたが、胃腸が悪くなるとは医者にも意外だったようだが、口内炎や口の周りが炎症を起こしていたし、下痢気味で、おならが臭いなどの症状も出ていたので、引き続きお願いしたところ、薬がタケプロンに変更になった。今では、おならが非常に臭い、以外は自覚症状はなくなった。肝機能に関しては、酒に非常に弱くなった、飲むとすぐに顔が赤くなり、酔ってしまい、気分が悪くなる(それ以上飲めないから、二日酔いにはならない)などの症状が出ている。翌日気持ちが悪いこともあるが、胃腸がもともと弱っているためで、二日酔いではないと思う。

姉が紅葉さんのご主人の闘病について綴ったブログを会社でプリントアウトしてきてくれたのを読んでいる。彼女は、紅葉さんのブログで、D2でも前立腺癌の5年生存率はほぼ100%になったと書いてあったと言うので、探してみたが、書かれているのは、前立腺癌の一般的な5年生存率で、初期のAやBならば、確かにほぼ100%の人が再発せずに健康に暮らしているのだが、D2のような遠隔転移のある場合には、そうしたデータはないし(そもそも国民的な癌統計もないのだけれど)、国立癌センターのHPでもD2の予後は極めて悪いとしか書いていないし、昔のデータで、生存率は約1割というのがあるばかり。残念ながら、勘違いだったと思う。